9月に入ると唸るような蒸し暑さにも陰りがみえてきて、ふっと一つ息をした頃にやってきた大きな台風15号。残していった傷跡には驚くばかりであったが、程なくしてさらに大きな台風がやってくる。この2ヶ月の間に起きたことがたとえ偶然であったとしても、度重なる自然現象の奥底から垣間見え、感じる日本と日本人のある感覚のようなものに触れずにはいられなくなった。強烈な自然災害を通して日本が歩むこれから先のDigital社会への展望を、1つのコラムとして考えたいと思います。
- 自然と造形の交わり -
8月の初旬に首相官邸が注目されることがあった(正式には内閣総理大臣官邸と呼ぶようである。詳しくは、(電子政府の総合窓口(e-Gov) / 国会議事堂等に関する法律第1条)をご参照)。注目される経緯はさておき、思わず眼を見張るのは官邸という建物が放つ独自の美しさ。建物そのものの美しさに加えて、一面のガラス張りが自然光を建物内へと導き入れている。その広いスペースは何とも表現し難い空間のようであった。
ここは首相官邸であり、内閣総理大臣が職務を執行する場所・東京都千代田区永田町2丁目3番1号である。日本の行政権のトップに君臨し、然るべき姿へと導きだす一国のリーダーが鎮座するにふさわしい堅牢さと美しさを兼ね備えているのは、至極当然のことである。
しかし目を見張るのは建物だけではないように思えてくる。中庭だろうか、ずっと先のガラス越しに見える青々とした竹林の姿があり、これもまた美しい。永田町という東京の都心部に自然の竹林野が存在するはずもなく、おそらく官邸を建築した際に人工的に植えたものなのだろう。「政治の世界に竹林が要るのか」穿った見方をすればつい口からそう出そうだが、理屈を超えた存在のようでもあり、示唆的であった。
東京都千代田区永田町2丁目3番1号
もう一つふれたい場所がある。比叡山延暦寺。未だ訪れたことはないのだが、日本仏教の母山に存在する寺院として日本の誰もが知っていることであろう。ふれたいのはその深い歴史についてではなく、1700ヘクタールという寺院としてはあまりにも広大な境内地(境内地とは寺院に必要な土地のことであり、詳しくは、(電子政府の総合窓口(e-Gov) / 宗教法人法第3条)をご参照ください)。
1700ヘクタールもの敷地に寺院が建立し、目一杯敷き詰められているのかといえば、そうではない。比叡山という「山そのもの」が寺院にとって必要な土地、すなわち境内地なのである。このようなこと(建物の敷地に留まらない周辺の自然を含めた境内地というものの定義)は決して延暦寺だけのことではなく、(程度の差はあれど)日本の神社仏閣に共通して見られることではないだろうか。街の再開発をするために不動産事業者への売却の手続きを進めると、その土地が境内地であることは時々見かける。寺院からは離れていても周辺の自然と一体として古くから維持管理されていたのであろう。すなわち、再開発するまでの開発者が神社仏閣なのであり、日本古来の姿を「境内地」という名目で守ってきていたのかもしれない。
滋賀県大津市坂本本町4220
首相官邸と比叡山延暦寺。日本行政府の頂点と日本仏教の母なる山。目的も趣旨も似ても似つかないこの両者の造形に共通するのは、その間近には「自然が存在」するということ。そしてそのことを美しいと感じ、受け入れていくのは決して自分自身だけではないような気がしている。
元来、自然とは尊い存在なのだろう。自然は人間に恵みを与えてきた。そして自然は人間に災害ももたらしてきた。自然によってこの命が生かされ、またこの命が絶たれる。古くから日本ではこの輪廻が繰り返されてきたように思う。だからこそ日本では生活のそばに自然を位置しようとする。
それは、決して「人間」≧「自然」が成立し得ないことを自覚し、「共生、共に生きる」という生活様式。愛情と畏敬の念をもって寄り添う。前者にも後者にもその意識が垣間見えるように感じる。
しかし、相手が自然であろうと政治はその最大限の力を以ってしてでも日本国民を守らなければならず、それは共生とは別次元の事柄なのだろう。そして行政は急速な都市の発展の中に旧来の生活様式を置き忘れてきたのかもしれない。そうであるならば、前者にはもう少し竹の本数を増やしてあげたいと、ふっとした。
- 縦書きの灯火は消えない -
インターネットの話である。私たちがすっかり日常的に触れ合うようになったインターネットの世界には、「文字を縦に書く」という考え方はない。正確に言えば実現が難しいというところであり、運用上の問題も考えれば、まず選択肢から外れる(このサイトにある縦書きは全て画像である)。2000年に入るとwindowsというosが一気にシェアを伸ばし、今日に至るまで日本語を横に書くという習慣を私たちに植えつけ続けている。不動産登記も従来縦書きであったが、この流れに即するように2005年、A4による横書きが標準とされるようになった。
日本語の「とめ・はね・はらい」は文字と文字との連続性を生み出し、1本の流れる川を彷彿とさせるようである。この特徴を生かしているのが従来からの縦書きであり、明朝体や毛筆体なるフォントではないだろうか。新聞・習字・川柳・小説などに縦書き、明朝体、毛筆体が使われるのは、きっとこの連続性にこそ美しさと可読性を見出しているように思えてならない。
一方で、横書きにこのような「川」を見つけるのは難しい。横書きには1文字1文字の力と読みやすさがある。そう、1文字が独立し完結しているのである。これを上手く表現するのが、ゴシック体やうろこのないサンセリフなのだろう。
半ば強制的なインターネットは、私たちに横書きとゴシック体という表現法を強いた。日本語をゴシック体で表すというのは今や何ら抵抗のないことかもしれないが、そこには従来のような「川」はなく、ゴツゴツとした「岩」のような言葉が標準化されつつある。
時代に抗って横書きに明朝体や毛筆体を採用しても、どこか違和感が残るのはそのせいであるように思える。インターネット上での強引な原点回帰を試みたとしても、それこそ「川」のような流れを失っているようで、それは滑稽な姿である。
縦書きの世界へ
しかし、美しさにおいては決して「縦書き」≧「横書き」なのではなく、その答えをまだ見つけていないだけのような気がしてならない。「共生、共に生きる」という生活様式を、これから年月をかけて見出していく時期にあるのではないだろうか。インターネットというのはまだまだ後発の技術であり、自然環境と日本人古来の生活のようにその向き合い方に深い歴史があるわけではない。長く日本を支配してきた縦書きという文化と、インターネットによって現れた横書きという文化は、もしかすると喧嘩をしている最中なのかもしれない。
そして、今の自分は教科書体というものに惹かれ、取り憑かれつつある。日本人が大切にしてきた文化を生かし、新しい時代にも寄り添うことができるかもしれない。そう、Digital上においても隅っこに追いやることはしたくないという思いがそこにはある。
教科書体をどう評価するか
- 印鑑と電子サイン -
これからの課題の話である。そしてまだスタートして間もない、その関係性さえもぼんやりとした話である。9月11日、日本には新たな内閣が発足し、次の局面へと行政府は動き出している。情報通信技術政策担当に、「日本の印章制度・文化を守る議員連盟」の会長である竹本直一衆議院議員が就任したことで、横書き文化のインターネットでは大いに話題となった。「対立」、「利権」、「ペーパーレス化の遅延」など、ビジネスでの効率性や迅速性を強調する立場からは、Digital化を進めていくには障害であるかのように、およそネガティヴな言葉が飛び交っていたのはついこの間のことであり、記憶に新しい。
印鑑を押すのはもはや日本だけとも言われ、圧倒的にマイノリティーな習慣なのだろう。しかし、日本には法律上で「押印」という条文がたくさん存在し、その法律効果を得るために、または後の訴訟上の紛争を防止するためにも印鑑は欠くことができない。
IT担当大臣は就任会見の中で、Digital化とハンコ文化の両立を目指す考えを示した。きっと海外からは好奇な方針に映るのかもしれないが、なぜだかほっとする自分自身の気持ちがある。もしかすると日本の美意識の奥底には、融合という言葉が息衝いているのかもしれない。そして「美意識」は「意識」へと昇華し、私たちの日常の決定事項に一体不可分を生み出し続けているのだろう。そう、自然と造形がそうであるかのように。
印鑑登録制度と電子サインという高度な技術。両者はこれから長い月日をかけてじっくりと向き合うことをスタートさせた。しかし、そこに対立は要らないだろう。求められるのは愛情と畏敬の念をもって寄り添うこと。どれだけ人間の叡智を結集し技術を発展させようとも、私たちは自然を支配することはできないのである。
数日をかけて通り過ぎ、遠くアラスカの方へと消え去った台風19号。体の中では未だ鼓動し、決して失くなることはない。
text&illustration : takahasi kei