- 「手間」と「責任」を意識する -
深い知見と数多くの経験を積み重ねていくことで特定の分野に精通する「専門職」と呼ばれる職業が、日本にはあまた存在しますが、その中でも士業は代表的な専門職ではないかと思います。しかし、専門職とはいえ、士業は決してモノを作ったり生み出す存在ではありません(中には得意な方もおられるでしょうが)。「結果に対して責任を負う」。この一言に士業の専門家としての特徴が言い尽くされているように思います。もちろん、専門家として備えるべき技術・知識・経験は絶対に必要であるでしょう。しかしながら、万が一不測の事態が起きた時に誰が責任を取るのか、その点が明確でない場合、果たして専門家としての役割を努めたと本当に言えるのでしょうか。責任が明確になることで、人の経済的または社会的活動は担保されることとなり、全ての物事が潤滑に前に進む大きな原動力を生み出していると思います。反対にその逆は自己責任の世界であり、そうであると当事者が認識していなかった場合(曖昧になっていた場合)、トラブルの温床を生み出すことになります。
例えばですが、金融機関から1000万円を借りたAさんは所有している不動産に抵当権を設定することになりました。以下、分類に分けて責任の所在を整理したいと思います。
(専門家がいる場合)
抵当権設定という当事者同士(金融機関とAさん)の行為を形あるものにするためには、法務局へ登記を申請する必要があり、司法書士が専門家として関与します。法務局へ申請と申しましても、上記の事情をただ法務局に伝えただけでは登記は出来ず、それを目に見えるよう体裁を整え、不備や不足が無いように準備をしていくことが必要になります。なぜかと申しますと、法務局からみれば金融機関とAさんとの抵当権設定行為は与り知らないことであり、それが間違いでないという基準(具体的には不動産登記法という法律)を満たした時に初めて、誰に対しても金融機関とAさんとの抵当権設定行為が存在することを主張できる状態、すなわち登記出来ると判断せざるを得ないからです。
その基準まで持っていくためには技術・知識・経験と準備にかかる手間暇(以下、双方をあわせて手間とします)が必要になり、それを司法書士が背負うことになります。そうしますと、万が一「その基準までに達しなかった」際の責任は司法書士が負うことになります。なぜなら、そのように三者が(金融機関とAさんと司法書士)認識しているからです。当然司法書士としてはそういう事態を招く訳にはいきませんので、金融機関とAさんには1000万円の貸し借り行為があったことの確認行為を行います(場合によってはその現場に立ち会う必要もあると思います)。即ち、登記の是非だけでなく、その裏側にある事実関係とその是非をも確認していくのです。そして、間違いないと判断できれば、後日のトラブルにならぬようことの顛末の記録を残し、当事者の登記を進めていきます。
以上の手間と責任を当事者以外の人間が背負ったことへの代償として、司法書士への費用が発生します。金融機関とAさんとで負担することになりますが、お金を借りるという関係上、実際にはAさんが負担することが多いかと思います。
さらに補足になりますが、専門家が関与し間違いのない事実に基づいた登記がなされることで登記制度の信頼は維持されます。これは行政機関(法務局)の利益でもあり、国家の安定した運営という観点からみますと、司法書士は国家側からも代理人のような存在と言えるでしょう。
(当事者のみの場合)
この場合の手間と責任は、当然金融機関とAさんが背負うことになります。但し、金融機関が専門家を介さないことをAさんに対して承諾することはありませんので、全てはAさんが背負うことになります。もっとも、インターネットやテレビなど情報伝達ツールを利用して「手間」を得るのはとても簡単なことですので、Aさんからすれば、家にいながらスマートフォン片手になんとなく「手間」を得ようとするのではないでしょうか。しかしながら、手にした「手間」が登記の基準を満たしているのか、証明する手段がAさんにはありません。その証明を求めてさらにインターネットを活用したとしても、正解には辿り着けないでしょう。なぜなら、どれだけ調べ尽くしてもインターネットの検索サイトがその責任を取ることはないからです。情報の取捨選択はAさんの自由であり、責任でもあります。故にその行動の正しさも自分自身が証明すべきことになります。仮にAさんが責任に対して曖昧な感覚に陥ったとすれば、残念ながらそれは情報過多環境が作り出した負の側面に苛まれたに過ぎないのではないでしょうか。全てはAさんの判断であり、検索サイトは無関係なのです。
以上のことは、抵当権設定だけではなく相続、贈与、会社設立、役員変更、遺言など士業が関与すべき行為全てに該当します。最初にも申しましたが、結果に対して責任を負うことが曖昧になっては人間のあらゆる活動が阻害されるだけです。100%責任が取れると確信を持つためには、インターネットやテレビから得られる情報は無用な存在と言わざるを得ません。残念ながら、今のデジタルツールは「便利だが極めて無責任」、その程度の次元でしかないのです。
最近では代行と表して手続きをサポートするwebサイトがありますが、こういった類も責任は全て利用者本人にあります。費用が安いなどメリットを強調しますが、自分自身で結果に対する責任を取るのに、どうして他者へ費用を支払わなければならないのでしょうか?これは安物買いの銭失いでしかなく、違和感を早急に自覚すべきであります。なお、代行というのは、資格によって代理業務が定められた分野に対する違法行為であり、言葉の差し替えによる言い逃れに過ぎないと私自身は認識しています。
手間と責任
- 専門家の価値 -
インターネットは私たちに「知る」ことをとても容易に実現してくれました。しかしながら、専門領域に発生する責任と、インターネット上の一般論には埋めることの出来ない大きな乖離があります。故に識字憂患 − 人は字を覚えることによって、学問をするようになり色々な事が分かってきて、そのためあれやこれやと、悩み事が出てきてしまう。何にも知らない方がよかった − そんな立場に身を追い込みやすくしているのではないでしょうか。
だからこそ専門家は、依頼者本人と並走することを忘れてはいけません。依頼者本人からすれば、まるで自分自身がしているかのように、状況のきめ細やかな報告や些細な疑問でも丁寧に答えることによって依頼者本人と専門家は一体となることが、現代には必要なのではないでしょうか。そうすることで、依頼者が得た知識は憂患を超え、力になるはずです。これ(本人と専門家の一体化)こそが代理人制度のあるべき本来の姿だと思います。
そして、専門家は時に毅然とした対応を持つことを忘れてはいけません。これは責任を取るものが最後まで誠実に業務を遂行することへの表れであり、現代においても変わらない、専門家の普遍的な価値なのではないかと思います。
text&illustration : takahasi kei