- 見える経済価値 -
「防犯カメラ」。行政や企業だけでなく個人でも住宅や店舗にカメラを設置していることは多い。街中を歩くと防犯カメラを見かけるのは今では当たり前のことのように思う。監視社会、と言ってしまうと少しの後ろめたさと息苦しさを感じるが、安全・安心と引き換えに日本の日常は可視化されつつある。
また多くの事柄がデータ化されるようになったおかげで、私たちが保有している情報は縦に横にと、変幻自在にその姿を変えていくことができるようになった。「30代女性層と男性層の購買傾向についての違いは」とか、「現在地から最寄りの銀行までの道順は」とか、「過去のアクセス履歴から自動的に表示される画像広告」など。こういったデータは消費活動の血となって少しずつ蓄積され、さらに新たな経済を生む。あらゆることが見えるようになった恩恵は、社会をより高度なものへと導く原動力になるのだろう。
衣食住に直接関わることを主戦場とする生業は、とても見えやすい。食べる物・飲む物・自動車・洋服・電化製品など。また、空間や時間を提供する生業も然りだ。ホテル旅館・乗り物や観戦事などはその例であるだろう。私たちはこれらを連続して行うことで、また、日々メディアにのり、それを目にすることで意識をし、話題に上げ、注目するようになる。この継続的なサイクルは「見え方」をブラッシュアップし、進化していくきっかけを生んでいるのかもしれない。
「見える」は心地良く、気持ちを安心にする。そしてどこか現代的だ。しかし、この世には見えないものが多数存在し、日々この国を支えているはずであり、そういった無数の「不可視化」なことまで日の光を当てる必要があるのだろうか。
- 見えないものはどうする? -
見えるものと同じようにする、これが1つの答えであるだろう。同じ土俵にのればよい、のってしまえば見えると同等である。2010年頃から一気に拡大した地方自治体のご当地キャラクターは、最たる例かもしれない。市区町村は人間が法律によって定めた「線」であり、見ることは出来ないが、各々工夫を凝らしたキャラクターを用いて表現することで(擬人化とでも言えばよいか・・)見えるようになった。そして、10年近く経過して、現在ご当地キャラクターはすっかりと定着している。しかし、定着すればするほど、「市区町村=可愛らしいキャラクター」という構造にどこか違和感を感じないだろうか。
少し話がそれるが、東京マラソンの事前イベントである「東京マラソンEXPO」の出展ブースに、以前東京司法書士会のお手伝いとして立ち会ったことがある。目的は露出、司法書士の認知度向上である。参加されるランナーの方々に色々な景品を渡すのだが、あるランナーの方に、「どうして司法書士がブースを出展しているの?」とはっきり言われたことがあった。体としては東京にある1コミュニティとして東京マラソンに協力するということなのだが、痛いところを突かれたような心情になり、(四苦八苦何とか説明はするものの)少し答えに窮してしまった。それもそうである、ランナーからすれば明日の大会に向けて気持ちを高めているところだ。そんな折に、法律事務の専門家から突如景品を渡されても「?」である。
繰り返しになるが、市区町村は見えない「線」である。キャラクターではないし、例え地元の名産品を使っても、その「線」を表現し尽くすことは出来ない。見えないものを無理やり見せようとすると違和感が生まれ、それを拭いきってでも見せるのは容易ではない。
もう1つよく見かけるのが、価格など消費者が興味関心するところへ焦点を当てて見せる、という手法である。これは通信や電子マネーの分野でよく目にする。とにかくお得であれば誰だって盲目的になるものであり、理屈なんて存在しない。浸透の仕方も早く、効果は大きい。
しかし、価格と言った身を切る行為は大きい組織に分があるもの。継続的な取り組みには向かないし、何より全体像が一向に見えてこない。停電して使えなくなった → なぜ?、システム攻撃により不具合を起こして何も出来ない → なぜ?、だ。それは、よく分からないものに対価と時間を支払っているからだ。何となく安いようだが、何が適正なのか一切の判断がつかないものが急に使えなくなるのである、どうやっても理解を示すことはできない。「〜とは」という消費者のシンプルな問いに応えていかない限り、常に大きなリスクを抱えることになるのだろう。
- 環境や歴史と向き合う -
防犯カメラを受け入れ、cookieにも簡単に同意するような現代である。「見えないものを見せる」ことを否定してしまうと、国民の意識から遠く離れていくだけである。しかしながら、無理な見せ方に少々の疲労感を味わっているのは、決して自分だけでないように思う。
違和感を残さず、価格に頼ることなく、誰もがごく自然に続けることができる方法があるとするならば、それは自分自身の置かれた環境や日々取り組む生業の歴史と正面から向き合うことなのではないだろうか。
環境と言っても多義的である。人間関係のような社会的なものであったり、生活する場所のような自然的なものであったりもする。人を意識するならば、それは相手が抱いているイメージに寄り添うことかもしれない。場所を意識するならば、それは自分の居場所を素直に伝えることかもしれない。どこを選択して焦点を当て、その結果何かを排除するという決断は、およそ自分を取り巻く全ての向き合うべき環境なのだと思う。
そして、どんな分野であれ自己より先に多くを試みた先達者は存在する。(ありきたりだが)彼らがどういう想いで取り組んできて、その積み重ねがどうなったかを理解し吸収することは、自己の表現をより強くするものだろう。
環境も歴史も自分自身を制限し、抑圧する要素にもなるものだ。しかし、ただ、自身の状況を受け入れるだけではない。もっと広大な視点を持つことを。ただ、過去の事実に忠実であればよいわけではない。古きものに新しい何かを見出す力を。
「見えないものは、そのまま見せたい」。多くの余白と解釈の余地を残したままにして、TOPの画像を作らせて頂きました。
text&illustration : takahasi kei